遣唐使・真備最初の渡航

真備が最初に唐に渡航したのは、717年。真備が大学を卒業した ての
22歳のときです。
遣唐使とはいっても、真備の場合は遣唐留学生という立場で、一介の
留学生にすぎませんでした。

このときの遣唐使の主だったメンバーとしては、

遣唐押使(一番上の位)・・・多治比真人縣守
遣唐大使(押使の下)・・・大伴宿禰山守(阿倍安麻呂から交代)
遣唐副使(三番目)・・・藤原馬養

であったことが、「続日本紀」に記されています。

通常は遣唐大使が一番上ですが、真備が最初に渡ったときはその上にさらに押使という役職を設けていたようです。また、このとき、後に朝廷を騒がせることになる僧侶玄ムも一緒だったと伝えられています。

唐へ渡る直前の3月初めに天皇に挨拶をし、真備ら一行は難波より出港しました。

このとき総勢557人。
4隻の船に分乗して出発したとのことで、一隻の船の規模も相当なものだったと想像できます。

一行は途中、博多や平戸などに寄港しながら唐を目指し、"冊府元亀"という中国の資料によると、同年10月1日に都長安に到着したとあります。

当時、唐に渡るルートは3つありました。
北路・・・壱岐、対馬を経て朝鮮半島の西海岸沿いを北上するコース
南路・・・九州の西海岸沿いに南下し、五島列島付近を抜けるコース
南島路・・・九州から奄美大島経由で南下し、沖縄本島を経由するコース
最初のころは北路が一般的でしたが、新羅との関係が緊張してくるにつれて南路や南島路などのコースが取られるようになり、真備ら一行は南島路を通っての渡航となりました。

6か月間もの長旅だったということで、唐の玄宗皇帝は危険を冒してはるばるやってきた一行を歓迎し、歓迎会まで開いたそうです。


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