吉備真備の臨終地

これも、生誕説同様、吉備説と大和説があります。

右大臣を辞職後、どこで余生を送ったのかの史料が残ってない
ために多くの推測を読んでいますが、そもそも、真備が大和地方
で生まれたのであれば、臨終の地もおそらく大和の地であったと
思われます。

真備がその人生において、吉備地方に直接赴いた記録はなく、
そのことを額面通りに受け止めるならば、行ったこともない父親の
出身地で余生を送ることは考えられないからです。

また、奈良教育大学の構内の吉備塚を始め、かつての大和地方には吉備真備の墓と伝えられる墓所が今も点在しています(吉備塚については他の人の墓だとも言われています)。

大和の地で生まれ育ち、途中、唐や九州での赴任生活はあったものの、大和地方を拠点とした人生を送ったのはほぼ間違いのないところであり、だからこそ、大和地方が臨終の地であるとするのが理に適っているのかもしれません。

が、一方の吉備地方、今の真備町にも、吉備真備の墓が存在しています。
吉備真備の墓
まきび公園にある吉備真備の墓。



吉備真備の墓
下道氏の墓所に建てられている石碑(矢掛町)。このような形で吉備地方、大和地方それぞれに真備の墓は点在しています。
実際はどこが臨終の地なのか、はっきりとした証拠がないために確定できないのが現状です。


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