藤原広嗣と吉備真備

740年、時の太宰府少弐という職にあった藤原広嗣が乱を起こしました。

藤原広嗣は、当時権勢を誇っていた藤原四兄弟の死後に台頭してきた橘諸兄
によって太宰府に左遷されていたのですが、そのことに不満をもち、国家安定
のためには真備と僧侶玄ムを追放すべきだという主張をしていました。

しかし、真備と玄ムの重用は時の左大臣である橘諸兄自身も深くかかわって
おり、彼らへの批判はすなわち諸兄に対する批判でもあったわけです。

藤原広嗣の乱は間もなく平定され、広嗣は処刑されましたが、当時の真備と玄ムの重用ぶりを物語る事件といえます。

当時、真備は右衛士督兼中宮亮という職にありましたが、真備と一緒に唐に渡った玄ムが僧正という層としては最高の位に就いており、また、聖武天皇の母親の病気を玄ムが治癒させたとして、天皇家との信頼関係が強くなっていたという時代背景があります。

また、聖武天皇の母親の治療に玄ムを当たらせたのは中宮亮という立場にあった真備であるとする説もあり、彼らの台頭は旧勢力にとって快いものではなかったことは間違いのないところでしょう。

こうした流れの中で藤原広嗣は反乱を起こしたとされるわけですが、結局、こういう思いを持った旧来の勢力はその後もくすぶり続け、そのことに真備自身も振り回されることになります。


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