藤原仲麻呂と吉備真備

藤原仲麻呂は、吉備真備にとっては実にやっかいな存在だったはずです。

なぜなら、橘諸兄に変わって藤原仲麻呂が実権を握っていくにつれて、
吉備真備を中央政界から遠ざけようとしたからです。

一説によれば、一時権勢を誇った玄ムや橘諸兄などと共に中央政界で
活躍してきた真備にも、過去の責任の一端を負わせたのではないかという
見方もあり、旧来の勢力であった真備を新興勢力である藤原仲麻呂が疎んじた
のではないかというのが一般的な捉えかたのようです。

しかし、藤原仲麻呂は、真備を徹底的に蹴落とすことまではしませんでした。

いや、できなかったというのが正しいのかもしれません。

当時の大国、唐で20年近くも学を修め、唐国内でも名を馳せ、軍事知識に秀でていた真備は、排除したくてもできない目の上のコブのような存在だったのではないでしょうか。

近くにいては目ざわりと、九州は太宰府に左遷させはしていますが、新羅征伐や安禄山対策など、国家を左右するような局面では真備を頼っています。

結局、藤原仲麻呂は道鏡との権力争いの末に反乱を企てたものの、真備らに鎮圧されてその生涯を閉じています(恵美押勝の乱)。

真備にとっては長年の恨みを果たしたというところだったのかもしれません。


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